令和の青

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2011年10月09日

邦さんのテーマ

邦さんのテーマ

ーあの曲を聴くと思い出す、そんな情景がある。
 あの情景を思うと流れ出す、そんな曲がある。

フロントガラスの先で、おぼろ月夜に照らされた名もなき山々の稜線が幾重にも重なって見えた。僕が学生時代ボランティアに行っていた東京の西外れにある日の出が丘病院、そこでの緩和ケア病棟開設10周年の講演会に邦さんにきてもらった。

邦さんとはノンフィクション作家の柳田邦男さんのことである。たまたま親を通して知り会うことができ、以来12年ほど、定期的に会ってはその度に良い刺激くれるー40数才年上のたよれる人生の大先輩だ。

その講演会からの帰り道のこと。今夜の中央高速は八王子から先がえらい渋滞らしく「こりゃ降りて下で行こうか」とハンドルを握る邦さんは笑うように言う。 こうしてふたりだけで話すのはひさしぶりのことで、今日の出来事から近況まで話はつきない。

さっきから僕は自分が勤めているWEB制作会社が、『日の出が丘病院』のリニューアルサイトの仕事を請け負ったこと、そのサイトが最近オープンしたことを伝えるのに夢中で、まるで自分の手柄のように話を盛って伝えている。

邦さんは
「うんうん、それはよかった」
ハンドルを握りながら、うなずくように何度もそう言ってくれた。ヘッドライトが夜道を照らし、路面の継ぎ目が一定のリズムをもってやわらかい振動で伝わる。まばらだった家々の灯りの間隔が、しだいに近づいてきた。

「邦さん、あしたはどこ行くんすか」何気なく訊くと、明日は長崎に講演会へと行き、翌日はJR福知山線の事故調査委員会の仕事で京都へ向かい、その日のうちに東京の自宅まで帰るという。

「聞きしに勝るハードスケジュールだな。京都で一泊して帰ってくれば良いんじゃないすか」

そういうと、
「いや、文春から来た原稿を上げないといけないから...やはり東京に戻るよ」そう自分に言い聞かせるような口調で返した。
僕は東京へと戻ったその翌日以降のスケジュールにも興味が沸いたけれど、なんだかお互い話すだけで疲れちゃいそうな雲行きを察知して、遠慮することにする。

事故調査委員会の件から邦さんは、報道機関や国などの行政から現在依頼されているさまざまな仕事を、1つ1つ説明してくれた。そして最後に
「今、自分が死んだら大変なことになっちゃうな」
そうつぶやくように言った。
「そんな...」僕は思わずそう返したが言葉が続かず、ただ黙って邦さんの横顔を見ていた。その表情は確固たる信念と覚悟を持って己の仕事に打ち込んでいる男の顔、まさしくそれだった。このとき僕は普段とても穏やかな邦さんの、うちに秘めた強い意志を垣間見た気がする。高速道路のやわらかいオレンジの灯りが入り込んでは邦さんの横顔を照らし、またすっと暗くなったー

ー『ヒーローに乾杯』という曲はたまたまTVのドキュメント番組で数十秒間流れて知ったのだが、曲を聴いた瞬間、この1年ほど前の邦さんの横顔が鮮明に浮かできて「ああ、これは邦さんのテーマソングだ」僕は勝手にそう認定してしまった。柳田邦男公式テーマソングなんだから探さねばと思っていろいろと調べてみて、ようやく曲名が分かる。そしてCDを取り寄せ、あらためてゆっくり聴いてみた。やはりこれは邦さんのテーマソングだ!
- Here's to the heroes Who never rest
- Here's to the heroes Those few who dare Heading for glory Living a prayer

去る5月27日、管政権は東電の福島原発事故の調査委員会のメンバーを正式決定。邦さんもそのメンバーのひとりとして発表された。そのニュースに対する様々な書き込みを見ていると、
「柳田氏なら東電の体質、従来の原子力行政について徹底的にメスを入れてくれる!」
「<想定外>か?--問われる日本人の想像力」という文章を寄稿して、独立した第三者委員会の設立を主張されていた柳田氏が、原発事故調査委員に入ったということを聞いて、本当に感動した」
など、邦さんがメンバーに選ばれたことに対する期待のメッセージが多く見られ、それらを読むうち誇らしくて涙が出た。

二十歳のころから僕の等身大のヒーローだった邦さんは、今や東北、子どもたちとそのご両親、いや国民全員にとってのヒーローになってしまったようだ。

マリオ・フラングーリス
『ヒーローに乾杯!(Here's To The Heroes)』
マリオは1967年生まれ。6歳よりアテネでヴァイオリンを学び、17歳の時ロンドンの名門ギルドホールに入学し演技を学んだ。ロンドンのウエストエンドで「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」等に出演し、大評判となる。
マリオの才能に注目したマリリン・ホーンの紹介で、往年の名歌手=アルフレード・クラウスに師事し声楽の基礎を学ぶ。92年渡米し、ジュリアード音楽院に入学。93年にはパヴァロッティ・コンクールで見事優勝する。97年にギリシャへ帰国後、ソニー・クラシカル・ギリシャよりCDを2枚リリースし記録的なヒットとなる。

Sony Music Online Japanより引用させて頂きました

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